やり捨てが本当に捨てられてるとは限らない理由

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新春早々、以前コラムの仕事をしたことのある某サイトからアンケートが送られてまいりました。

 

「あなたは、今までにヤリ捨てされた経験がありますか?」

 

お屠蘇気分も吹っ飛ぶような赤裸々な鮮烈ワード。

私、イエス・ノーを答える前に、そもそも「ヤリ捨て」とは一体なんぞや? という哲学的な問いの迷宮に迷い込んでしまいました。

 

で結論から申し上げますと、たぶん、「ない」。

これは私がいい女ですアピールとか決してそういうことではなく、たぶん、そういうことを「いたす」際の心構えの問題だと思う。

 

誤解をおそれず申し上げますと、私はそもそも、男の人は「飲食店」で女は「客」だと思っている。

つまりだ、自分で選んで店に入り、料理を頼んで食すのはあくまで女の側だということ。

それを、自分が無銭飲食される側のように考えるから「ヤリ捨て」などというワードが出てくるのではないか。

 

そもそも、食欲と性欲は実に密接な関係があります。そして互いに近いところにあるから、どちらかが満たされるとどちらかがどうでもよくなる。

彼氏がいないとついつい食欲に走ってしまう、などというのはこういうとこから来るのかも知れません。

だから、男とつきあうのとご飯を食べに行くことにはすごく共通項が多い。

マズイ店(DV・浮気・借金男)には行きたくない、ジャンクフード(大して好きでもない適当な男)は身体に悪い、人気の店には行列ができる、店のハシゴ(ご乱行)はほどほどに、無銭飲食(不倫)は罪に問われる・・・etc。

よって、「ヤリ捨て」というのは単に男目線から見た発言にすぎず、ならこっちだって相手の男を「二度と行かないマズイ店」と考えることができるわけです。

被害者意識をもった女性はモテません。だったら、こっちが店を自分で選ぶ側の「客」になればいい。

 

もちろん、相手にとってもこれは平等だから、あなたのほうが「二度と来て欲しくない客」になってしまう可能性だってある。でも、そいつは自己責任というのもあるかもだけど、ただ単にご縁がなかったというだけのことかも知れない。

 

今度いっぺん実験としてやってみて欲しいのは、もうこの際弱気などかなぐりすて、自分があくまで「選ぶ」側という姿勢で男の人とつきあってみること。

 

お店(よさげな男性)の前を通りかかったらニッコリと会釈して、入れそうなら喜んで入り、出された料理は手を合わせ「いただきまーす」とありがたくいただく。

それで料理がまずければ二度とその店に行かなければいいし(間違っても『おそまつさま』などと言ってはいけない)、またその店に行きたかったら日を置いて自分から予約(連絡)すればいい。

あるいはお店に記帳(名刺を渡す)していけば、数日後に向こうからDM(デートの誘い)が来るかも知れない。そこから馴染み客になったり、ならなかったり。大事なのは、客はどこまでもこちら側だという姿勢です。

 

そしてやっぱり大事な一食、どうせならいい店に行きたい。「いい店」というのはなにも行列ができる店とか高級店とかいう意味じゃなく、自分にとって居心地のいい「一生通えそうな店」ということです。

一生に一店でもそういう店に出会えればラッキー。

もちろん、店のほうにも意地があるから、もし招かれた場合には窓際のいい席に案内される女でありたいよね。